国道六号線−夏、19歳の肖像

大学一年の夏。私は大学のある仙台から、実家のある山梨まで自転車を走らせた。絶好の晴天のもと、朝六時に寮のある今の青葉区を出て、駅前の大通りを抜け、橋を渡って、国道四号線のバイパスに入る。やがてその道は、そのままひたすら日本橋へ南下する四号線と、福島の二本松を抜け、水戸で太平洋に接する国道六号線に別れる。四号線が東北自動車道や東北新幹線が脇を固める本街道だとすれば、六号線はそこから大きくはずれ、山を通り、海へ抜ける脇街道。それまで片側二車線で交通量が多い四号線にちょっと辟易していた私は、海への憧れもあって、迷わず六号線に進路をとった。

六号線に入った途端、交通量はみるみる減り、空気もどことなくおいしくなった。快調に飛ばしていると道はやがて長い上り坂になる。別に自転車での完全走破は考えていない。先も長い。あまり自分にプレッシャーをかけたくなかったので、苦しくなるとあっさり自転車を降りて歩いた。道路脇に林しかなくなり、ふと人の気配が感じられない瞬間が訪れる。昼間だと言うのに異次元に迷いこだ気分。ようやく坂を登りきると今度は下り坂。再び自転車にまたがり、風を切って走る。自販機でジュースを買い、食堂で昼飯を食べ、ひたすら南を目指す。午後になり、幾つか街も抜けた。渋滞中の車にクラクションも鳴らされた。 やがて長い夏の日差しも陰り始める。涼しくなって、ようやく遠くに海も見えてきた。しかしそこは工業地帯。期待していたような砂浜はない。小さなバックにタオルと下着だけの軽装。それでも出発前はどこかの砂浜で野宿でもしようと考えていたが、甘かった。すっかり暗くなった国道。次々と車のライトが通り過ぎていく。時間はすでに午後8時。昼間の汗で体が冷え始める。無性に暖かい布団とシャワーが恋しい。 意を決し、国道を左に折れた。本道から離れることかなり、ようやく水戸駅前で小さなビジネスホテルを見つける。一夜の宿を求めると快く迎えてくれ、自転車の置き場所を教えてくれた。なぜかとても嬉しかった。部屋にはいって熱いシャワーを浴び、すぐに深い眠りへと落ちた。

翌朝、半ばフロントマンを起こす形でチェックアウトを済ませ、出発した。高揚していたのだろう、体の疲れは特に感じなかった。再び国道に入り、南を目指す。次第に交通量が増し、排気ガスが増える。気温がどんどん上昇し、アスファルトが焼ける。想像以上に国道上は暑い。道の悪いポイントも増え、車との距離が縮まる。一度はバランスをくずして転びかけた。Tシャツにランパンの軽装。見る見るうちに肌は焼け、汗が渇き、塩が浮く。道路脇の公園で帽子に水を入れては、それをかぶり、また走る。これの繰り返し。水をかけ、走る。水をかけ、走る。やがて大きな川を渡る。東京駅前に到着。しかし休むところを見つけられないまま、甲州街道に入る。立川を抜け、八王子に入る。ここに来てようやく日差しは陰りはじめるが、逆に全身にかけた水のせいで体が冷えてきた。高尾を抜けて難関の大垂水峠。陽はすっかり落ちた。ときたま通る車のライトだけを頼りに越える。長い下り坂のあと相模湖を過ぎる。いつしか反対車線には車の長い列。渋滞中の気晴らしだろう、開いた窓から声をかけてくれる人がいる。

頑張れよ!」

「頑張って!」

元気が出る。少し走るとまた頑張れよ、の声。嬉しかった。涙が出るほど嬉しかった。最後の力を振り絞る。多くの車に見守られ、多くの暖かい声に励まされて、残りの距離を一挙に走り抜けた。待望のゴール。時刻は九時頃だったろうか。家に着くと家族が暖かく迎えてくれた。私は連絡してなかったが、友人から聞いて知っていた。

その日からしばらくはよく寝た。灼熱の太陽の下、二日に渡り走り続けた体は軽い脱水症状を起こしていたかもしれない。体調の回復とエネルギーの補給が必要だった。しばらくして気づいたが、自転車のタイヤが、走行がいかに厳しい状況であったかを如実に物語っていた。いつパンクしてもおかしくないほどに摩耗しきっていた。

その後、その自転車は一度は仙台に戻った。休み明けにまた私の足として復活した。しかしすぐに消えた。 寮の玄関前に置いていたのに、盗まれたか、処分されたか。今となっては記憶の中にしか存在しない。私が仙台から自宅まで自転車で帰ったという事実を物語るものはもうない。しかし、国道六号線は、今でもそこにある。国道六号線は、私にとって19歳の夏の、一つの肖像である。